「えびすかき」再興を目指して【Vol.1】
「えびすかき」とは
日本を代表する伝統芸能として2003年にユネスコの無形文化遺産として認められたものに文楽人形浄瑠璃があります。とくに淡路と徳島の人形浄瑠璃は伝統芸能としてよく知られています。この人形浄瑠璃の故郷といわれているのが西宮の傀儡師の「えびす廻し」あるいは「えびすかき」と呼ばれている人形廻しです。西宮を代表する芸能といえばこの人形操りがあげられます。
平安時代末期に大江(おおえの)匡房(まさふさ)が表わした「傀儡子記」「遊女記(ゆうじょのき)」を見れば、傀儡子は「一畝の田圃も耕さないし、一枝の桑の葉も摘まない」とされ「不定住であり、漂泊している」と書かれています。木人(ぼくじん)(木偶=人形)を舞わしていた傀儡子の活躍場所は美濃、三河、遠江、播磨、但馬、西海とありますから静岡辺りから近畿、九州までひろがっていたことがわかります。
彼らは西宮神社の北の産所町に居住し、小さな人形の入った箱を首から提げて戎様のご神像を形どった人形を躍らせながら諸国を廻り、戎信仰を広げていったとされています。この西宮神社に所属した「傀儡師」の一団が操った人形操りを「えびす廻し」「えびすかき」と言っていました。そして人形操りをしたあとで神社のお札を配って歩きました。その姿は、例えば「摂津名所図会」の第7巻には人形操りが子ども達の前で生き生きと実演している様子が描かれています。浮世絵等には、傀儡師の三番叟の人形を廻している様子が描かれています。
室町時代の日記「御湯殿上(おゆどのうえの)日記(にっき)」には、西宮の「えびすかき」が宮中に参入して人形操りをしたことが記されています。1590年に「この程参り候えびすかき皆一だんと上手にて、ほんの能のごとくにまいらせていちだんいちだんおもしろきことなり」と記されています。安土・桃山時代が西宮のくぐつの活動が最盛期を迎えたと思われます。江戸中期までは一人遣いが中心であったようで鳥居清倍の浮世絵「殿中傀儡図」(人形劇の図書館所蔵)を見れば、傀儡師が宮中で太夫と三味線を横に一人で人形を操っていることが分かります。
又、播州三木諸色明細帳には、1742年に傀儡師7組56人とあります。1799年には西宮神社より「紛らわしきお札の配布につき差し止め注意書が回っていますから、西宮神社の傀儡師たちとの交流が考えられます。1839年ごろに産所町の中心にあった百太夫社が現在地に移されていますが、西宮の傀儡師たちはどこへ行ったのでしょうか。1676年には俳人億丸が「人形や秋風めぐる西の宮」と詠んでいますが、地元では衰微していったと思われる。明治に西宮には吉田伝吾の人形座があったのですが、死後明治の終わりごろには廃業したといわれてその後西宮では人形操りの一座を見ることが出来ません。その後は終戦時に一面が焼け野原になってしまい貴重な資料等も散逸したものと思われます。