地域の歴史① 日本に 呉服が やってきた(193号)
西宮文化協会は、大正14年に「西宮史談会」に源を発し、昭和22年に学者文人の集まりから広く一般に開放された会へと転身、現在も活発に活動を展開しています。その会報は民俗学の宮本常一など専門家から、一般の会員による寄稿で構成されています。今回からその中から地域文化紹介を。第一回目は兵庫県立芸術文化センター特別参与の河内厚郎氏が寄稿した「染殿寄席の思い出」より抜粋しました。
「吾妹子(わぎもこ)に 猪名野は見せつ名次山 角の松原いつか示さむ」(わが妻に猪名野は見せた 名次山や角の松原は いつになったらみせられようか)
万葉集の高市連黒人(たけちのむらじくろうど)の歌にいう「角」の現在名は津門。その頃は白砂青松の海岸で、入り江が天然の良港「務古水門」となっていた。
西宮市松原町の「染殿池」は、わが国に染織の技術が伝わった地で、当時、朝廷は先進の技術を摂りいれよと大陸と交流を重ねていた。
日本書紀をひもとくと、応神天皇の招聘で渡来した技術者は「武庫の水門に着き、池田の里に至る」と記されている。大陸に渡った阿知使主(あちのおみ)に連れられて日本に来た工女は、兄媛、弟媛、呉織、漢織、と呼ばれる4人で、兄媛は胸形明神の要請により九州筑紫潟の地にとどまり、その他の工女たちは務古水門に到着した。そのとき船を繋いだ松を「漢織呉織の松」といい、彼女たちが故国をしのんだ樹の下で、池の清水を汲み、糸を染め、機を織ったので、ここを染殿池と呼ぶようになったという。
周辺には中国大陸から渡来した織姫ゆかりの津門綾羽町、津門呉羽町という町名が残る。池の北側にある喜多向稲荷神社(きたむきいなり)がいつ頃から祀られているのか分からないが漢織と呉織を懐古する地域の人々がその遺徳をしのんで祭祀を始めたのがルーツと考えられている。
大辞林によると、「呉服」は「中国の呉から伝わった織り方によって作ったおりもの」とある。また、古語大辞典には、「はとり」が「はたおり」を略した語とあり、彼女たちが伝えた織物が「呉服」として定着し。読み方も「ごふく」になったのであろうか。
(西宮文化協会会報紙662号 河内厚郎「染殿寄席の思い出」より)
●西宮文化協会はどなたでも入会可(年会費4000円)●
★10月16日(月)13時30分~:関西学院大学文学部教授 森田雅也氏による「十日えびすの海からの早詣り 西鶴『日本永代蔵』より」西宮神社会館(無料) ※参加希望とお申込みください。
問合せ:TEL 0798-33-0321(西宮神社)
染殿池 伝承地
西宮市松原町11 喜多向稲荷神社