臨終の音楽について~~私たちはいかに死ぬか(194号)
あれは10年前のこと。たまたま通りかかった集合住宅の集会所での葬儀の場から、にぎやかな歌が流れていた。細川たかしの「浪速節だよ人生は」だった。おそらく故人が好きな曲だったのだろう。また、昨年亡くなった私の友人は、遊びに行くとレコードやCDを流してくれ、死んだ時はベートーヴェンの「第九」で送って欲しいと言っていた。私はその友人を送る場に立ち会えていないのだが、生前に彼は奥さんにもそのことを伝えていたので、彼の希望は実現したであろう。
イタリア生まれの指揮者、リッカルド・ムーティは、人生を楽しむ達人として敬愛するモーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の三重唱「風よおだやかに吹け」で送って欲しいと語っている。このように自分の死後に好きな音楽を流して送って欲しいという願望をもつ人は少なくない。
とは言っても、私がここで問題としたいのは、自分の死後の葬儀などで流してもらう音楽ではなく、自分が死ぬ瞬間、あるいは死ぬ直前に自分の脳内に流れる音楽についてである。このことを考えるようになったのは、数年前に見た夢がきっかけだった。
夏の午後、昼寝をして見た夢である音楽が流れていた。チャイコフスキーの序曲「1812年」のラスト前の下降旋律の部分だった。滑り台をゆっくり下降するような気分で繰り返し奏でられる美しい旋律。それはこれまで経験したことがないような心地良いものだった。夢から覚め、自分が死ぬ瞬間にこんな体験をするのも悪くないなと思ったのを覚えている。それから私は死ぬ間際に聞きたいと思う音楽のリストを作るようになり、これを「臨終の音楽」と呼ぶことにした。
平安時代の仏教でも人の死と音楽についてさまざまな考察がなされている。僧正済源の場合は「空に音楽あり」、十禅師兼算は「空中に微細の伎楽を聞き」などと伝えられており、往生する者の臨終時には何らかの不思議な前兆を示すとみられていたようである。空也上人の臨終では、美しい花が降りそそぎ、素晴らしい香りで周囲が満たされ、そして妙なる音楽が天に響いたという。
さて、私の場合はどうなるのだろう。こればかりはその瞬間にならないとわからない。「臨終の音楽」は、たった一度きりの、そして人生最後の楽しみでなのである。
(文:岡本 マサヒロ/人類学)