食べること/食べられることをめぐって~私たちはいかに死ぬか(195号)
ブートジョロキア、キャロライナリーパー、ハバネロ…。私を含めた辛い物好きの人間を除いて、あの辛さを好む哺乳類はいない、しかし辛さを感じない鳥はあれをパクパク食べる。哺乳類に比べて消化する力が弱い鳥類は、トウガラシを食べ、糞として種子をそのまま排出し、そして種子は発芽することが知られている。鳥に食べられることによってトウガラシはその生息域を拡大してきたのである。
小笠原諸島には、わずか数ミリの小型のカタツムリのノミガイが生息している。ここで問題となるのがなぜ本土から1000キロも離れた離島に陸生の生物が生息しているかということである。ある研究によると、鳥に食べられて糞として排出されたノミガイの15%が生きていたという。ノミガイは自力では長距離移動することができないが、食べられることによって新たな土地で命をつないできたと考えられている。食べられてしまうことは死を意味すると私たちは思いがちだが、必ずしもそうとは言えないのである。
父親が他界したとき、私は火葬場でひとかけらの骨をポケットにいれ、あとで口に含んでみた。私は骨を食べたのである。食べることによって死んだ者が復活するとは思っていないが、骨は私の身体の一部となり、脇腹のあたりに父親が存在していると感じることがある。
日本では「骨こぶり」という風習があったらしく、民俗学者の折口信夫は「骨をしゃぶることは、死んだ人に敬意を表する、または、死んだ人の形見を自分の身に入れておくことになる」と述べている。
アフリカの事例もあげておこう。ザンビアの農牧民トンガでは、誰かが死んでしばらくたつと死者の母系親族のなかから死者の霊を食べる者が決められる。実際に食べるわけではないが、トンガ語では死者の霊を継承することを「食べる」という意味と同じ言葉で表現する。
トンガ社会を研究した人類学者のE・コルソンには死者供養についての論考もあるが、私はコルソンに会ったときに「あなたの霊魂を食べてもいいですか?」と質問してみた。コルソンはにっこり笑いながら「もちろん、いいですよ」と答えてくれた。ユーモアがわかる人である。「あなたの骨を食べてもいいですか」、「私の骨を食べてもらえませんか」。生きているうちから親しい人たちとそんな会話をするのも楽しいかもしれない。
(文:岡本 マサヒロ/人類学)